LOGIN二階へ上がる階段は、前に来た時と同じだった。
けれど、今日は少しだけ違って見える。
白い壁に貼られた小さな案内。
階段の途中に置かれた、展示名の書かれた紙。
『小さな器と暮らしの写真展』
その文字を見ながら一段ずつ上がる。
胸は少し速く鳴っていた。
朝倉さんに会えるかもしれない。
それは、確かにある。
でも、それだけではない。
器を見る。
写真を見る。
自分の生活の中にあるものを、少し違う角度から見てみる。
今日はそのために来た。
そう思い直すと、足元が少し落ち着いた。
◇◇◇◇
展示室に入ると、前回とは空気が少し違っていた。
白い壁に写真が並び、その下や横に、小さな器が置かれている。
木の台。
淡い布。
湯のみ。
小皿。
深い鉢。
翌日の昼休み、私は森下さんに夕飯の写真を見せた。 青みのある深皿に入れたかぼちゃの煮物。 少し煮崩れて、形はきれいとは言えない。 でも、器との色合いは悪くなかった。 森下さんは画面を見るなり、目を輝かせた。「すごくいいです」「本当?」「はい。かぼちゃが少し崩れてるところも、ちゃんとおいしそうです」「そこ褒めてくれるんだ」「生活感です」 森下さんは真面目な顔で言った。「器、もう藤崎さんの家の子になってますね」「家の子」「はい。展示会場にいた時より、たぶん馴染んでます」 その言葉に、私は少し笑った。 器が家の子になる。 森下さんらしい言い方だけれど、何となく分かる気がした。 買ったばかりの時は、まだよそから来たものだった。 でもヨーグルトを入れて、トマトを入れて、かぼちゃを入れて。 少しずつ、私の生活に馴染んできている。「作家さんにも、感想を話せたんだ」「え、直接ですか?」「うん。朝倉さんが、よければって」 森下さんの表情がさらに明るくなる。「すごいです!」「すごい?」「藤崎さん、自分の言葉をちゃんと外に出してます」 そう言われて、少し照れた。「緊張したけどね」「でも、言えたんですよね」「うん」「それ、すごいです」 森下さんは力強く頷いた。 私は画面の写真を見つめた。 普通のヨーグルトの話。 トマトのマリネの話。 かぼちゃの煮物の話。 そんな小さなことを人に話して、それを喜んでもらえるとは思っていなかった。 でも、話してよかった。 そう思えた。◇◇◇◇ 午後の仕事中、何度か朝倉さんの言葉を思い出した。
書店を出ると、夕方の空は少しだけ藍色に近づいていた。 昼間の明るさはまだ残っているのに、店先の灯りがもう目に入る。 掲示板には、さっきまで見ていた展示のチラシが貼られている。『小さな器と暮らしの写真展』 その文字をもう一度見て、私はバッグを少し持ち直した。 中に器は入っていない。 買った器は、もう私の部屋にある。 食器棚の白い器の隣で、次に使われるのを待っている。 でも今日は、別のものを持ち帰っている気がした。 作家さんの言葉。 朝倉さんの言葉。 普通の日の話を、また聞かせてください。 その一言が、胸の中で何度も静かに響いていた。 普通の日。 特別ではない日。 ヨーグルトを食べる朝。 少し薄い味噌汁を作る夜。 花瓶の水を替える時間。 洗濯物を畳む途中で、つい本を開いてしまう午後。 そういうものを、話していいと言われた。 むしろ、聞きたいと言われた。 それが、思っていた以上に嬉しかった。◇◇◇◇ 帰り道、私はスーパーに寄った。 今夜は何を作ろう。 展示に行く前から決めていたわけではない。 でも朝倉さんに、普通の日の話をまた聞かせてくださいと言われたら、なんとなく普通の夕飯をちゃんと作りたくなった。 特別な料理ではなくていい。 誰かに見せるためでもない。 私が食べるための夕飯。 野菜売り場で、かぼちゃと小松菜を見る。 トマトもある。 卵もまだ家にあったはずだ。 私は少し迷って、かぼちゃを手に取った。 それから、豆腐と小松菜もかごに入れる。 かぼちゃの煮物。 小松菜と豆腐の味噌汁。 あとは、卵焼き。 いつものようなメニュー。 でも、今日は新しい器に何を
朝倉さんが他の来場者の方へ向かったあと、私はもう一度展示室をゆっくり見て回った。 さっきまで見ていたはずの写真も、少しだけ違って見える。 作家さんに感想を伝えたあとだからかもしれない。 朝倉さんと、普通の日の話をしたあとだからかもしれない。 器も、写真も、ただそこに飾られているものではなくなっていた。 誰かが作ったもの。 誰かが撮ったもの。 誰かの生活に入って、少しずつ意味を変えていくもの。 そう思うと、展示室の白い壁まで少し温かく感じた。 私は『余白の席』の前で足を止めた。 丸いテーブル。 湯気の立つカップ。 向かいの椅子に置かれた布。 その椅子は、やっぱり寂しいだけには見えなかった。 空いている。 でも、拒んでいるわけではない。 誰かが座るかもしれない。 今日は何も置かれないかもしれない。 それでも、その余白はちゃんとそこにある。 私の部屋の二脚目の椅子も、きっと同じだ。 千尋が座った。 森下さんが座った。 紙袋や本を置いた。 何も置かない日もある。 そして今、私はそこにまだ知らない未来まで無理に座らせなくていいと思っている。◇◇◇◇ 展示室の端にある感想カードの机へ行き、私は少し迷ってからペンを取った。 今日、もう感想は書いた。 作家さんにも話した。 朝倉さんにも話した。 それでも、最後にもう一言だけ残したかった。 白いカードに、短く書く。『普通の日の中で使いたい器と、普通の日の中で思い出す写真に出会えました』 書き終えて、少しだけ手を止める。 普通の日。 その言葉が、今日何度も胸の中で響いていた。 特別な日ではない。 誰かに褒めてもらうための日でもない。
作家さんと別れたあと、私は展示室の窓際に近い場所へ移動した。 窓は小さく、外の景色はあまり見えない。 けれど、そこから入る光が壁の写真の端を少しだけ明るくしていた。「話してよかったです」 私が言うと、朝倉さんは静かに頷いた。「はい。とてもいい時間でした」「緊張しました」「そう見えました」「見えてましたか」「少し。でも、ちゃんと藤崎さんの言葉でした」 その言い方に、胸が小さく温かくなる。 ちゃんと私の言葉。 以前の私は、それを持つのが苦手だった。 相手が喜びそうな言葉。 場を乱さない言葉。 無難で、正しくて、誰かに迷惑をかけない言葉。 そういうものを先に探していた。 でも今日は、うまくなくても自分の言葉で話せた気がする。「普通のヨーグルトの話ですけど」「普通のヨーグルトの話がよかったんだと思います」 朝倉さんは少し笑った。「特別な料理より、器が本当に使われている感じがしました」「そうなんですね」「はい。日常に入ったんだなって」 日常に入る。 その言葉を聞いて、私は自分の部屋を思い浮かべた。 朝のテーブル。 青みのある器。 ブルーベリー。 グレーのマグカップ。 窓辺の花瓶。 そういう景色の中に、あの器はもうある。 買ったばかりなのに、少しずつ日常になっている。◇◇◇◇「朝倉さんは」 私は少し迷ってから聞いた。「はい」「写真を撮ったあと、その写真が誰かの日常に入ることってありますか」 自分で聞いて、少し抽象的だったかもしれないと思った。 でも朝倉さんは、急かさず考えてくれた。「あります」「あるんですね」「
朝倉さんに案内されて、私は器の作家さんの方へ歩いた。 展示室の端で、作家さんは年配の女性と話していた。 小さな白い皿を前に、料理の盛りつけについて説明している。 私は少し離れた場所で立ち止まった。 今ならまだ戻れる。 そう思ってしまう自分がいる。 感想を伝えるだけ。 それなのに、胸が少し緊張していた。 うまく言えるだろうか。 変なことを言わないだろうか。 作った人に直接話すなんて、少し大げさではないだろうか。 そんな考えが頭に浮かぶ。 でも同時に、伝えてみたい気持ちもあった。 あの器を使ったこと。 普通のヨーグルトを入れたこと。 少しだけ朝が嬉しくなったこと。 それは、私の生活の中で本当に起きたことだった。 朝倉さんは私を急かさず、隣で静かに待っていた。「無理しなくても大丈夫です」 小さな声で言われて、私は少しだけ笑った。「大丈夫です。少し緊張してるだけで」「はい」「でも、話したいです」 そう言うと、朝倉さんは穏やかに頷いた。「では、少しだけ」 作家さんの話が一区切りついたところで、朝倉さんが声をかけた。「すみません」「あ、朝倉さん」 作家さんがこちらを向き、それから私に気づいた。「この前、器を選んでくださった方ですよね」「はい」 覚えていてもらえたことに、少し驚いた。「ありがとうございました。使ってみて、どうでした?」 いきなり聞かれて、私は少し慌てた。 でも、作家さんの声はやわらかかった。 正解を求めている感じではない。 私はバッグの持ち手を握り、ゆっくり言葉を探した。「普通のヨーグルトを入れました」「ヨーグルト」「はい。プレーンの。あと、ブ
書店の二階へ上がると、展示室には前より少しだけ人が多かった。 仕事帰りらしい人。 年配の夫婦。 小さなノートを持って写真を見ている女性。 白い壁に並ぶ写真と、そのそばに置かれた器。 一度見た景色なのに、今日は少し近く感じた。 私は最初の展示からゆっくり見ていった。 朝のテーブル。 白い皿のトースト。 台所の深い鉢。 夕方の丸いテーブル。 余白の席。 前に来た時は、器を選ぶ前だった。 今日は違う。 私はもう、あの小さな深皿を自分の部屋で使っている。 ヨーグルトを入れた。 ブルーベリーをのせた。 トマトのマリネも入れた。 食器棚の白い器の隣に置いた。 そのせいか、展示の中の器もただ見るものではなく、これから使われるものに見えた。 棚に並んでいる時の静かさ。 食卓に置かれる時の少しの緊張。 食べ終えたあと、洗われて戻る場所。 器にも、そんな時間があるのかもしれない。◇◇◇◇ 私は『余白の席』の前で足を止めた。 前回よりも、写真の中の椅子が柔らかく見える。 向かいの席には畳まれた布。 カップから立つ湯気。 人はいない。 でも、誰かの気配はある。 私の二脚目の椅子も、最近はよく何かを置いている。 本。 紙袋。 森下さんが持ってきてくれた焼き菓子。 千尋が座った記憶。 森下さんが座った記憶。 そして時々、何も置かない余白。 その余白を、私は前より怖がらなくなっている。 空いていることは、足りないことではない。 まだ決めなくていい場所があるということ。 その考え方は、私の中で少しずつ根を張っていた。「藤崎さん」
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。